OUR STORY
数寄の集合茶亭
素の集合別邸
Elegant teahouse
Minimalist villa
雄大な富士山と駿河湾を臨む静岡県沼津市千本松原。
戦火を逃れた松林が広がる千本浜公園にほど近い静寂閑雅な地。
その一画にひっそりと佇む集合茶亭と堂々たる集合別邸。
四百年もの間、守られてきた千本松原
天正8年(1580年)〜
古くは鎌倉時代の紀行文『東関紀行』にも「素晴らしい松原」として登場する千本松原。戦国時代の北条氏と武田氏の合戦で一本残らず伐り払われてしまったことにより、住民は暴風と塩害に悩まされました。ここに立ち寄り、この光景を嘆いた旅の僧・増誉上人が、一本一本お経を唱えながら、一千本を植え付けていきますが、一度途絶えた松が根付くのは困難で時間がかかることでした。しかしながら、上人は時の政府に建言し「枝一本腕一本」という厳しい法度を設けて苗木を愛護し、数代の苦心によって今の壮大な松原が出来上がったと言い伝えられています。二抱え三抱えほどの立派な老松が隙間なく茂り、磯馴松のように曲がりくねらず、杉や欅のように真っすぐな幹がそびえる姿は、若山牧水をはじめとする多くの文人たちを惹きつけました。潮風、松原、野生の鳥たち、季節の移ろい。そのような自然環境と潤いがある千本松原は、人々の想いによって大切に守られてきたのです。
別荘地として栄えた沼津
明治26年(1893年)〜
富士の麓で自然に恵まれ、海の幸・山の幸が豊富に揃い、体によい潮風が吹く沼津は、明治時代に鉄道が敷かれ、交通の要衝として発展。肺結核に効果的な潮風があり、松原に守られ塩害もない。気候風土も良く、別荘地や療養地としても知られていました。
さらに御用邸が建てられて以後、多くの名士や文人たちがこの地に別荘を築くようになります。その中でも千本松原の別荘地を借りた一人に、大阪のミツワ石鹸で財をなした三輪善兵衛という生粋の趣味人がいました。「千人茶会を催したい」と、第一級の茶室のある大きな数寄屋造り「松岩亭」を建てたのが沼津倶楽部のはじまりです。
戦火を免れた松原と沼津倶楽部
大正2年(1913年)〜
ミツワ石鹸二代目社長・三輪善兵衛が沼津市から借用した約三千坪の土地、庭園「松石園」の中に、当代随一と言われた江戸幕府小普請方大工棟梁の柏木家十代目・柏木祐三郎の手によってつくられた沼津倶楽部。第二次世界大戦中には、建物が陸軍省に接収され、将校たちの休息所に。当時、工業が発達していた沼津は、海軍工廠や多くの軍事工場が存在し、大空襲の標的となった土地でもありました。しかしながら、上空から千本松原を見たアメリカ軍は、その見事さに躊躇し、松原への爆撃を避けました。それにより、その一画にあった沼津倶楽部は戦火を免れます。
1946年(昭和21年)〜
戦後、当時の沼津市長・勝亦干城が、大蔵省に移管されていた当建物を取得し、「社団法人沼津倶楽部」を発足。戦災復興の協議の場となりました。焼け野原になった沼津での政治活動の拠点として、また唯一接待のできる割烹として利用され、沼津の復興と発展に大きく寄与しました。
宿泊棟を増築して再興
平成18年秋(2006年)〜
老朽化した状態で長年利用されていなかった建物を修繕し、宿泊棟を敷地内に増築。「千本松・沼津倶楽部」として平成20年(2008年)に再興しました。建築・設計は、日本建築学会賞作品賞を受賞した集合住宅「W・HOUSE」をはじめ、「二期倶楽部」(17年閉館)などで知られる渡辺明氏によるものです。沼津倶楽部は渡辺氏の遺作としても知られています。
また平成27年(2015年)、茶亭と長屋門はその歴史的・美術的な価値が評価され、国の有形文化財に登録されました。
文化を育み、文化を紡ぐ。
再構築された逸品たちを名建築で嗜む。
令和5年(2023年)〜
沼津の人々が大切に守り続けてきた文化を受け継ぎ、育て、次の世代へ。
拘り抜かれた意匠はそのままに、茶亭と別邸のほんの一部を刷新しました。
分解と再構築が魅せる食とともに、沼津の歴史に新たなページが刻まれます。